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写真評論家・平木収の講演録「写真はどこに行くのか」1994年 第5回 ── ベルナール・フォーコンについて

2026-07-30||鳥原 学

平木収さんの作家論は、ベルナール・フォコンへと移る。

平木さんは、以前の勤務先の川崎市市民ミュージアムで1992年に開催された「アン・リベルテ:現代フランスの写真展」を担当(キュレータはパトリック・ロジェ、ジャン=クロード・ルマニー、ジル・モラ)され、その中にフォコンも含まれていたこともあって、話の解像度が高い。「コンストラクティッド・フォト」という言葉も懐かしい響きがある。

フォコンは特に日本で高い人気を博した作家だが、現在は写真作品の制作をやめてしまったと聞く。また、2024年には、3人の男性から性的暴行によって告発されていたりもする。諸々の側面で時の流れを感じざるを得ない。


平木収「写真はどこに行くのか」第5回 ── ベルナール・フォーコンについて

さてね内側に内側にって点ではね、この人も内側に内側に、最新作はちょっとスライドがね、手配がつかなかったんだけど、前々作ぐらいです。みなさんご記憶あると思いますが、マネキン人形を使っていろいろなお遊び的な写真を撮ってたベルナール・フォーコン、「シャンブル・ダムール/愛の部屋」。

彼の近況を語っておきますと、今年だったかな。大阪のピクチャーフォトスペースってところで写真展があったんだけれども、写真の中に言葉を写し込む、そういう仕事をしています。言葉ってアフォリズム、詩のような言葉ですね。前の前くらいの作品です。彼はマネキンを使ってシチュエーションを作って、非現実なんだけれどもありそうな情感を認識する、いわゆるコンストラクテッド・フォトというのをやってたんですけど、このあたりからさらに様相が変わっております。

マネキンとの別れと「部屋」というメタファー

マネキン人形は、彼は売り飛ばしました。彼が使ってたマネキン人形は、七彩工芸という京都のマネキン屋にありまして、日本のどこかにあります。僕が川崎に在職中にやった写真展で、「フランス現代の写真」という展覧会があったんですけど、そのときにフォーコンの作品が来てたんです。あのマネキンが壁の前に並んでるんですね、ずらっと。で、それは“さよなら”の記念なんです。で、このマネキンはマルセイユの隣の飛行場から明日かな、あさって大阪の伊丹に立ちますって書いてある。

さてマネキンとさよならしたフォーコンは、部屋っていうものをシンボルっていうか一つの愛のメタファー、愛の隠喩にしていくわけ。ただ、彼の愛っていうのは少年愛なんですね、そんで少年愛っていうのは単に例えばホモセクシュアルな少年が好きといったことだけでなくてね、少年の頃の思い出、楽しかった思い出、豊かな思い出──確か兄だったと思ったけど──兄との楽しかった日々、お兄さんも確かアーティストだったと思ったけど。それを大切にしているわけです。単にセクシャルな意味における、一言「変態」っていう言葉で片付けられるものではない。

ヨーロッパのどこもがそうなんですけど、石造り、石で作られた部屋の中に、埃っぽいところに照明だとか、ちょっとした風を送ったり、なにかを回したりして、で、下に、いろんな言葉が書いてあるんです。「わたしはどうなっていくのだろう」とかそういった、このころから言葉の共作をやってます。このあとどんどん砂漠にいって写真を撮っちゃうんだけど、変わっちゃうんですね。

感性の内向化と「解脱」のような心理状態

これもどれを見ても非常に内向的な作品です。これなんかシーツがでてきてかなりセンシュアル、感覚的なイメージが具体化してますが、まあ、言ってみれば、シャーマンも内向的だったんだけれども、繊細な感性の持ち主は歴史だとかそういうとこにいかないでね、もっと自分の運命に対して内向的な姿勢を強めていったんです。

これはその後の砂漠で、感情というか感覚的なものを作り上げた写真の作品なんですけれど、血の海があったりするんです。これはフランスの氷の山ですかね。ある種、日本人的に解釈すると、地獄を作ってそれを写真という表現手段に置き換えている、そういったことも感じないわけではないです。

ようするにフォーコンは最近では東南アジアにおりまして、東南アジアに行っては、南仏、チュニジアの方だったかな、いたる所に行って、好きな景色の所に詞のような文字を置いて、景色の中に言葉が浮かび上がってくる。そういった作品を撮ってまして、もう内向的になっているというか。自分のテイストの内側に入ってくるとなると、超越して一種解脱というかね、「わたしは死ぬだろう」ってなことが大前提になって、いろんなことを考える。

まだそんな年じゃないですけどね。たしか四〇代半ば、同世代だったと思います。すごい強烈な言葉があって「わたしはまたこの場所にくるだろう」っていうのがあるんですね。ある景色を前にしてて、これはタイかなんかの田園なんですけど、その中に「わたしはまたこの場所にくるだろう」って言葉を吐くっていうのはね、なんかすごく不吉な感じがするんですよ。古い見方かもしれないけど。そういうふうな心理状態になってるんですね。

やっぱどこかでシャーマンが内向的になっていってね、内向性を強めていって先祖帰りのような形で、そういった傾向って両方ともにあったと思います。活躍時期がかなり似ているわけですね。

 

 


以上、次回に続く。